【考察】怪我人がいる、わたしはいない。だから妖魔はこないの意味
古代中国風異世界ファンタジーとなかなかマニアックなジャンルでありながら、緻密に練り込まれた設定と人物の心情描写により人気を博している十二国記。
そのうち一巻である図南の翼の作中、多くの十二国記ファンの頭に「 ??? 」をつけた論理的に破綻したセリフがあります。
「 怪我人がいる、わたしはいない、だから妖魔はこない 」
なお、この記事には図南の翼に関わる若干のネタバレを含みます。このセリフまで来たらあと少し。なんとなくラストまでの道筋は見えたところではありますが、一応本編を最後まで読んでから本記事を読み進めることをお勧めします。
ざっくり前後の経緯を整理
結論からいえば、「 怪我人がいて 」「 犬狼真君のいない 」絶望的な状況「 だから妖魔はこない 」のです。
まず前後の経緯を整理します。
物語の終盤。一人遭難した珠晶を助けるために怪我をした頑丘。血の匂いを嗅ぎつけられ妖魔が来るのに、責任を感じた珠晶は頑丘から離れず。
二人は駮を犠牲にしてまで逃げようとするも、血の匂いのために妖魔から逃げ切れず妖魔に追い詰められます。そして間一髪、犬狼真君が現れ二人を助けました。そして二人を一晩庇護します。
そして犬狼真君は珠晶に「 どうして昇山なんてしようと思ったの? 」と尋ね、引き出すようにして珠晶の本音を確認します。
そのときも血の臭気はばらまけれていたはずなのに、犬狼真君が現れてからは妖魔の襲撃がピタリとやんでいます。さすがは妖魔の国 黄海におわす唯一の天神。そして人間時代に十二国史上で唯一、妖魔を手なずけた更夜だけのことはあります。
だから妖魔はこない、は論理破綻
多くの方が違和感を覚える通り「 怪我人がいる、わたしはいない、だから妖魔はこない 」はおかしい。論理が破綻しています。
- 怪我人がいる → 血の匂いで妖魔が寄ってくる。
- わたし(犬狼真君)がいない → 妖魔が襲わない理由がなくなる。
- だから妖魔はこない。(!?)
なんだその超理論!?
「 だから妖魔がくる 」か「 だけど妖魔はこない 」ならわかるのですが……
はじめは正隆と六太が約束を守るのを一人孤独に待ちすぎたために、気でも触れたかと。
しかし、実は犬狼真君には犬狼真君の理屈があります。
ちなみに十二国記 図南の翼は出版レーベル・出版社を変えて二回も刊行し直されています。こんな意味深長なセリフで誤字を見逃される可能性は考えられませんし、実際誤字ではありません。
十二国記の世界には天意がある
十二国記の世界には蓬莱にはない理、天意があることをわすれてはいけません。
天意は我々蓬莱人にも理解しがたいものですが、張本人の珠晶も理解できていませんでした。
強気な口をきいてはいても本音では王になれるなんて思っていなかった珠晶。自分に天意があるとは想像も及ばなかったのでしょう。もしかしたら十二国世界の民であっても天意はあまり馴染みのないものかもしれません。
反面、犬狼真君は天神の一柱として天意にも近しい天仙です。彼は天意を理解したうえで行動しています。
そして問答により珠晶の本音を聞いた犬狼真君は、幼いながらも珠晶に王の器があると認めたのでしょう。しかも天神である犬狼真君に救わせるだけの天意もあるように見えます。
王器を試す天の加護
実際、昇山の旅のなかで珠晶は自覚している以上の強運に恵まれていました。
たまたま一国の太子(王子様)である利広に出会って証書を作ってもらう。騎獣を盗まれたおかげで入れた舎館で、金に困っていた朱氏 頑丘に出会い雇う。黄海を渡る旅では、死人が出た方が都合がいいときには人が死ぬ。妖魔に追われれば玉が満載された馬車が打ち捨てられている。
そして怪我人となった頑丘のために窮地に陥れば犬狼真君が助けてくれる。天神さえ巻き込むほどの強運。それが天意の加護です。
天はそうした加護を与えつつ、ギリギリの部分で当人の王器を試しているのです。
そのレベルで加護されているのですから、天が王器ありと判断=天意があればどうあっても珠晶は麒麟と出会い王になる。十二国記の天啓と天意はそういうシステムなのです。
風の海 迷宮の岸で一度は天啓を見逃した泰麒が、去っていく驍宗にいてもたってもいられずやり方も知らなかった転変までして迎えに行ったのも天意あってのことでした。
そういう意味では、もしかしたら珠晶が昇山しようと思い立ったきっかけの老師の死すら天意のうちだったのかもしれません。
天意を得れば結果ありきになっていく
天意を理解した上で「 怪我人がいる、わたしはいない、だから妖魔はこない 」のセリフを考え直してみましょう。
怪我人がいる状態で黄海にいれば当然妖魔に襲われます。実際、珠晶も頑丘も犬狼真君が現れなければ死ぬところでした。なのに、「 怪我人がいる 」ことが変わらない状況で「 わたしはいない 」と犬狼真君が言います。
本来ならまた妖魔に襲われて死にかねない状況ですが、犬狼真君は珠晶に対してハッキリと「 天意の加護があるだろう 」と言っている。天意が守っているなら死ぬことはあり得ません。するとどうなるか。
そもそも妖魔が現れない。これまで天の加護下にあった珠晶が妖魔に襲われたのは、利広、頑丘、犬狼真君に助けてもらえる状況だったから。
反対に、誰も助けてくれない状況では珠晶のもとに妖魔が現れること自体があり得ないのです。
「 怪我人がいる 」ピンチの状況で助けてくれる「 わたしがいない 」。その状況では珠晶が死ぬ絶体絶命の状況だが、天意のある珠晶に死の状況はありえない。
「 だから妖魔はこない 」ってわけです。
まとめ:怪我人がいる、わたしはいない。だから妖魔はこないの意味考察
額面通りではなんとも論理破綻したセリフではありますが、われわれが住まう蓬莱にはない理、天意を交えて考えればこのような結論になります。
裏を返せば、このセリフ自体が「 珠晶は天意があり、王になるであろう 」と天神である犬狼真君がお墨付きを出したセリフでもあります。
順調な旅に鵬翼の翼に乗ったと実感し、犬狼真君に救われるなんてとんでもない僥倖を目の当たりにした頑丘はその真意に気づいていた素振りをみせていました。
しかし、口ではなんといっていても自分が王になれるとは思ってもいなかった珠晶はそれに気づかない。そして怒涛のラスト、供麒は出会って10秒でビターン。
痛快ですね。なんと確固とした意志と聡明さ、そして憎たらしいまでの愛嬌でしょう。早く迎えにこないからだぞ供麒。さすがに生まれたばかりの珠昌に天意が下るわけはないので無茶な話ですが。
小野不由美先生は黄昏の岸 暁の天の刊行後、十二国記は次の長編で最後と発言しています。おそらく、2019年発売された白銀の墟 玄の月が長編最終巻となるのでしょう。
しかし、物語が終わってからも、90年100年500年と言わず千年でも万年でも、珠昌は自身の王道を貫き末永く恭を統べていってほしいと切に思います。そして、私の生まれ変わりはぜひ恭で。
ディスカッション
コメント一覧
更夜に関しては図南では確かに天仙と言われているけれども厳密には地仙で雁の仙籍に名前はずっと載っている(斡由の乱から約100年後の短編漂泊で記述がある)。そもそも天仙はどこの国にも属さない天帝に任じられた仙のこと、更夜は元州で仙籍に入って仙籍から抜くのも死ぬか王の裁定がないと無理(風の万里で才王と鈴の会話)400年以上たって天仙と言い伝えられてしまったというのが正しいかと
珠晶が誰も助けてくれない状況で妖魔が来ないって朱猿はどう説明するのか?しかも一度目は誰も助けられない状況で珠晶の真上まで迫ってきていたし
怪我人がいる、私がいない、妖魔は来ない
これは人の解釈でかわるが、私は怪我人がいるはそのままの意味で、間接的に妖魔を殺して血の匂いのする更夜がいない、王気感じて供麒が迎えに来るから妖魔は来ない、と読みました
血の匂いのする更夜がいると供麒が近寄れないからだと思います
更夜も天帝の加護というのが迎えに来るとわかってたからじゃないでしょうか
>更夜に関しては図南では確かに天仙と言われているけれども厳密には地仙で雁の仙籍に名前はずっと載っている
更夜が天仙じゃないってことはないですよ。アニメで泰麒と会った際、蓬廬宮の女仙に天仙と説明され、頭まで下げられているので。
アニメの設定が原作設定に100%忠実かは疑問が残るかもですが、小野不由美先生に確認してアニメだけで明かされた設定もあるぐらいなので、更夜=天仙も信頼して問題ないと思います。
私の記憶だと地仙としての記載が確認できるのがおっしゃる通り漂泊までですし、単純に図南の翼の時代までに抜けたか何かってだけかと。
人の世では「死ぬか王の裁定がなければ」とされてますが、それこそ人の世でそう言われてるだけでしょうね。
天がその気になれば地仙籍などどうにでもなるでしょうし、延王の意志に関係なく天仙に召し上げられたって可能性もあるかと思います。
個人的には更夜が天仙になることを延王や六太も納得のうえ、と思いたいですが。
>珠晶が誰も助けてくれない状況で妖魔が来ないって朱猿はどう説明するのか?
単純に朱猿が襲ってきた時点では王として確定していなっただけかと。
確定してたならそれこそ供麒はなにしてたんだって話だし、黄海もモーセよろしく左右にザバーって分かれるレベルで歩きやすくなったんじゃなかったですかね。
(珠晶が砂漠を割るところ見たいけど)
で、珠晶が犬狼真君と出会い、「本音でなければならないんだよ、お嬢さん。そうでなければ、天の加護は得られない」と言われて本音をさらけ出した。
それが天に認められ王器として確定したから、それ以降は「怪我人しかいない状況で襲われることはない」ってこと。
この状況ではむしろ、更夜がいたらどうにでもなるが故に妖魔が寄ってくる可能性すらあります。
そうなると更夜も妖魔と戦わざるを得ないし、不毛ですよね。黄海の神である彼にとっては妖魔とて無駄に殺生したくないでしょうから、珠晶と一緒にいてなにも得もないです。
っていうか珠晶が返り血でも浴びていようものならそれこそ供麒さんビンタされる前に卒倒しちゃいます。
個人的には誰もいない状況でも朱猿に殺されなかった結果自体が、鵬翼の翼と呼ばれる加護の一種であると同時に、試練(っていうか試験?)だと思っています。
ここまでも何度もあったピンチも、天が見込みのある珠晶を試していたんじゃないかと。
昇山自体がそうやって見込みのある人物を極限状態に追い込んで試すシステムなんだと思います。
でもなけりゃ本当に何のための昇山? って感じあるので。
例えば珠晶が自分可愛さのみで判断するような少女だったら、天に見放され、加護が切れて死んだかなって感じるんですよね。
どっかの有力者さんもそれで死んじゃった感あるし。逆に身分の高低にかかわらず人々を見捨てず、自ら囮になるまでやってのけた珠晶のポイントが高かったと。
個人的には白銀の墟 玄の月で驍宗が国を脱出しようとして捕まったのも、ギリギリ保っていた天意に見放されたためと解釈しています。
(その後、自国の民を助けるために捕まったことでもち直した)
>王気感じて供麒が迎えに来るから妖魔は来ない
麒麟がいるから妖魔が来ないって設定ありましたっけ?
むしろ麒麟の肉は(妖魔からすれば)美味いらしいので、自信のある妖魔なら積極的に襲いそうかなと。
泰麒ご一行も饕餮に襲われましたし。妖魔が来たんじゃなくて「麒麟で来た!」案件でしたけど。
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